ジョークとジョーク

ことばのリハビリですよ。

ストレンジャー

大阪のテストセンターでSPIテストを受けるのと、大学に休学願を出すために関西に上陸してる。結局1年間で就職が決まらなかったので延長戦を宣言しに舞い戻ってきました。


用事はどちらもあっさり終わったので、空き時間にぶらぶら散歩したり好きだった店に行ったりしてたんだけど、離れてた期間があった割には身体の感覚がスッと馴染む。昨日が神戸を離れた10月2日で、今日が10月3日ような感覚。神戸に住んでた頃、実家に帰省してもこういう感覚はなかったからなんだか不思議な感じ。まだ自分のホームが関西な気がしてるのはちょっと厚かましいだろうか。


歩いているといつの間にか潰れてる店や新しく出来た店を発見した。住んでた町の駅前にやたら気構えたメロンパン屋が出来てたし、大学近くの古本屋が潰れていた。住んでいた友達もほとんどいない。町の緩やかな代謝に気づく。今日は10月3日ではなく2月20日であることを実感する。


そんな中で変わらないものを見つけると嬉しくなりますね。よく通ってた定食屋に行ってみたら、7年前に初めて来店したときから変わらない店員さんが働いてて妙に感動してしまった。センチメンタル全開だったときに食べたコロッケそばはひどく安心する味だった。閉店間際だからちょっと油が悪くなっててコロッケが若干黒っぽくなってるの。そんなもんでいいんだよ。変わらない君でいてくれ。今度行ったら唐揚げ定食を食いたいなぁ。唐揚げがでかくて食いごたえがあって美味いんだ。


そうそう、SPIテストを受けたと書いたけれど、エントリーシートが最近ようやく通過した。来週は東京へ面接を受けに行く。まだどうなるかは分からないけれど、ぐずぐずと停滞してた僕の日々が少しずつ動き出している気がして嬉しい。今までは神戸を離れた日にとどまって時間に追いつけないままでいたけど、どうにかこの流れに乗って時間と自分を同期させて生きていきたいです。

犬は吠えるがキャラバンは進む

正月ムードも薄れて世間が日常を取り戻そうとしていた2017年1月7日の夜明け前、飼い犬が息を引き取った。前日から足元がふらついたり食欲がなかったりと良くない兆候はあったが、もうその日は朝からもう自力で立つこともできず食べ物もほとんど口にできない状態になってしまっていた。かかりつけの病院に連れていくかどうか家族で話したけれども、もう終わりが近いことが目に見えて明らかだったのでこのまま生まれ育った家で看取ってやろうということになり、母の布団で一緒に床についた。そして母が深夜目を覚まして様子を見たときにはもう息を引き取っていた。一番懐いていた母の隣で眠るように逝けてよかったな、と思った。


息を引き取ったばかりの体はまだ暖かくていまいち死の実感が湧かなかった。けれど亡骸を抱きしめたときの上手く定まらない四肢と首からは生の気配が消えていた。体にまだ残る暖かさと、触り慣れたやわらかい毛並みと、右手にあたる胸部の静けさとのギャップで混乱してしまう。なんとなく嘘のような気がしてしまって、のど元をなでたり鼻をくすぐったり耳をパタパタ動かしたりしてみたけれども、当然のように反応はない。ぼんやりとした悲しみをそのまま自分のベッドに持ち帰って何度もなぞるうちに、あぁこの子はもう死んでしまったんだ、ということがはっきりと形になった。そしてようやく涙をこぼした。


ドラマのように大げさな思い出はないけれども、一緒に生活してた中での些細な場面を思い出していると気持ちが高ぶってその日はうまく寝付けなかった。朝になったら2階に上がってきてベッドに上って顔を舐めまくってきたこと、来客の気配がしたらよく吠えていたこと、外出から戻ってきたら足元に飛びついてきたこと、散歩に連れて行ったらはしゃいで勝手に前に前に進もうとしてたこと、「餌だよ」と声をかけて食器にドライフードを入れる音がしたら駆け寄ってきたこと、イタズラ好きで隙あらばティッシュボックスから引っ張り出してティッシュを食べていたこと、リビングでくつろいでいたら足や顔をとめどなく舐めてきたこと、自分が退屈な時には人に近づいてきてなでるのをせがんできたこと、台所で晩飯の準備をしているとおこぼれがもらえることを期待して足元をうろついてきたこと。全部が過去になってしまった。


そして今日、亡骸を火葬した。もっと早く焼いてあげたかったのだけれども、斎場の都合でこの日になってしまった。職員に引き渡して屋外の喫煙スペースで一服をしていると、来る途中に見た工業地帯を思い出した。僕は小さい頃あの煙突の煙が空に昇って雲になるんだと信じていた。うちの犬も焼かれて煙となって雲になればいいと思う。幸いにも今日は快晴だし気持ち良く空に上れるはずだ。タバコの煙を吐き出しながらそんなことを考えていた。


僕がちゃんと飼い犬の死と向き合ったのは今回が初めてだ。もともと我が家には3匹の愛犬がいた。僕が小学6年生の頃に最初の1匹目がきた。明るいレッドのミニチュアダックスフント。1年後にこの子が7匹の子を産み、5匹は知り合いにもらわれていった。そして残ったブラックタンとレッドの2匹と母犬が我が家で生活することになった。母犬は一昨年、ブラックタンの子は去年亡くなっている。前の2匹の最期はどちらも僕が神戸にいるときだったので看取ることができなかった。そして今回最後の1匹が逝ってしまった。


死は少しずつ何かを失くしていくことなんだなと思う。最後の1匹は2~3年ほど前から階段を上がれなくなった。来客に対していつの間にか気づかなくなっていた。外出から戻ってきても大げさなお出迎えをしなくなった。散歩もいつの間にか歩くのを拒むようになった。「餌だよ」と声をかけても食器にドライフードを入れる音がしても目の前にご飯を持っていかないとわからなくなった。ティッシュボックスが目の前にあっても漁らなくなった。こたつの中で人の足を舐める癖がいつの間にかなくなっていた。何もないときは人に近づかずにひたすら睡眠と水を飲むだけになった。台所で調理の音が聞こえても興味を示さなくなった。そして最後には食べることも歩くこともできなくなった。死が訪れた途端に全てを失くすのではなく、少しずつ時間をかけて物や習慣や記憶を失くしていって最後に命を失くして死ぬのだ。穏やかに自然に失くしていけたこの子は幸せだったと信じたい。


犬たちはこたつに潜るのが大好きだった。冬場は日中の大半をこたつの中やこたつ布団の下で過ごしていた。もう1匹もいないのに、僕は未だに犬を蹴り飛ばさないように中を確認してから足を入れる癖が抜けない。こたつ布団の下に隠れてる犬を踏みつぶさないようについ遠回りをして歩いてしまう。他にも犬がトイレに行けるように引き戸を少し開けておく癖や、食べてしまわないよう机の上にティッシュボックスを置かない癖もそのままだ。まだ僕の行動の中から犬たちが消えていない。それを見つけるたびに少しおかしくなって少し寂しくなる。


けれどもいつかは犬たちのいない毎日が日常になって、僕の行動からも犬たちの気配は消えてしまうんだと思う。階段を上ってこないように段ボール箱で階段をふさぐ習慣も犬が階段を登れなくなってからはいつの間にかしなくなったし、餌の準備のときも反応を示さなくなってからは「餌だよ」と声をかけることもなくなった。そんな風に僕も少しずつ何かを失くしていって、ほんの少しずつではあるけども死へ向かっていくのだろう。


僕の習慣から犬たちがいなくなったとき、犬たちは完全に僕の記憶と写真の中だけの存在になる。僕はいい加減だから歳をとったら曖昧に思い出すばかりで都市伝説のように少しずつ像を歪ませてしまうかもしれない。だからせめてこたつに慎重に足を入れているうちは、足の裏を伝う舌の感触を思い出してくすぐったい気持ちになってあげようと思う。

祈り


何もしてない状態を少しでも脱却したいと思って久しぶりに宅録をしました。3か月ぶりかな。こんなに自分の精神状態が反映されるんだ……って作り終わってちょっと笑いました。タイトルのわりにすっきりしない曲。小林建樹の曲に古明地洋哉が歌詞を書いてGREAT3が演奏したらこんな感じかな。違うか。


自分のことを歌にするというのはなかなかに疲れる。どうしても照れやら自尊心やらが邪魔をして、カッコつけたり回りくどかったりする言い回しになってしまい、言いたいことの真ん中にたどり着けない。長々と書いて結局ぐるぐる同じところを回り続けているだけのときも多い。でも今回は今までよりは正直に書けたかも。作り終わった達成感で錯覚してるだけかしら。勘違いじゃなかったら嬉しいな。完全に余談ですが、歌詞を書き終わってタイトルをつけたら「そういや小林建樹にも同じ名前の曲があったよな」と思い出して、そのシングルジャケットと近い構図の写真を手持ちから探して曲のジャケットにしました。引っ越し作業が終わった後にアー写ごっこしてたときのやつ。独りで。

祈り

祈り


それにしても楽器は触らないとどんどん下手になりますね。特にベースは触るのが久々すぎて録音に丸一日かかったし、終わるころには指に豆ができちゃったよ。弦の太さ頭おかしいでしょこの楽器。馬鹿じゃねえの。

REMEMBER

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黒沢健一が亡くなった。ちょっと放心してしまった。L⇔R黒沢健一は中学生のころからずっと愛聴していたミュージシャンだっただけにショックが大きい。リアルタイムで遭遇したミュージシャンの死去の中で一番悲しい。あの弾けるようなメロディーも、滑らかに伸びるボーカルも過去のものを追体験することしかできないなんて。






僕にとってL⇔Rは世界一のポップバンドだ。往年のポップスへの愛が込められた普遍的なメロディーと、万華鏡のようにきらめくアレンジはちょっと他のバンドにはないものだった。今聴いてもLAZY GIRLの全編サビのようなキャッチーさには驚かされるし、誰もが持ってる"あの夏"の匂いが詰め込まれたREMEMBERには胸がキュンとする。もちろんL⇔Rの魅力は黒沢健一のみならず、ギター・黒沢秀樹のメランコリックな感性や、木下裕晴の縦横無尽に動き回るベースラインにもあるのだけれども、やっぱりメインソングライターの黒沢健一のポップセンスこそがL⇔RL⇔Rたらしめてた根幹だった。特にポリスター時代のアルバムを聴いてもらえれば、その隅々に仕掛けられたマニアックな遊び心を分かってもらえると思う。Lefty in the Rightは永遠の名盤。

Lefty in the Right?左利きの真実

Lefty in the Right?左利きの真実






L⇔Rが活動休止してからも、黒沢健一は精力的にソロ活動を続けた。ラストアルバム・Doubtで見せていたざっくりしたバンドサウンド寄りになってアレンジのカラフルさがやや後退してはいたものの、持ち前のメロディーセンスは健在だった。Rock'n Rollを初めて聴いた時の衝撃は今でも忘れない。攻撃的なピアノに乗せて冷ややかに疾走する2分半。ぜひ聴いてほしい。




黒沢健一はソロ活動以外にも期間限定のユニットをいくつかやっていたけれども、その中でも僕が1番好きだったのはMOTORWORKSだった。黒沢健一に加え、Scudelia Electro石田ショーキチスピッツ田村明浩、ホリノブヨシによるバンド。個人的にはもうよだれもののメンバー。お遊びで組んだようなバンドだからこその気負わない空気と、バンドらしい初期衝動がたまらなくよかった。またこのバンドがライブでカバーした黒沢健一のPALE ALEが「よくぞやってくれた!!」と叫びたくなるくらいの名カバーなのよ。原曲の100倍はカッコいい。そうだよ!こういうアレンジで聴きたかったんだよ!


いろいろと音源を聴きながら書いてるけど泣けてきちゃうな。間違いなく僕の音楽人生の大きな割合を占めていた人だったし、やっぱり今聴いても大好きだし。たくさんの名曲を聴いていると、代えがたい人を失ってしまったんだなと本当に残念で仕方がない。さっき矢野顕子のベスト盤が届いたのに全然聴く気にならないや。ライブも3年前に1回行ったきりだったしもっと行っておけばよかったな。早すぎるよ本当に。


黒沢健一さん、僕の青春を素敵なポップミュージックで彩ってくれてありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

クロノスタシス

久しぶりにスタジオに入ってバンドで音を鳴らした。最後にスタジオに入ったのがいつだったか調べてみたら8月9日だったので4ヶ月ぶり。数ヶ月単位でスタジオに入らなかったのは、大学に入ってバンドを始めてから初めてだったかもしれない。考えてみれば最後に入った数ヶ月はモチベーションが地の底についたバンドでスタジオが苦痛になってたときだったので、純粋に音楽を楽しむ目的で入ったのはもっと前かもしれない。


今回は4人で"とりあえずスタジオでなんか曲を合わせて遊ぼう"ということだったので課題曲を2曲決めてから臨んだ。他のメンバーがボーカル、ベース、ドラムで僕がキーボード。ただ片方の曲がどうしてもキーボードで雰囲気が出ないので、そっちは慣れないギターでやってみた。幸いコードもシンプルで難しいことはやってないので耳コピは簡単だった。ボーカル、ベース、ドラムでバンドをやったことはあったけど、ギターを弾くのは初めてだった。




ギターを弾いたのはきのこ帝国のクロノスタシスだ。独り暮らしをしてた頃、深夜に近所のコンビニに買い物する時はほぼ必ずこれを聴いていた。コンビニはこれを2回聴き終えるかどうかでつくくらいの距離だった。演奏してるとその頃の夏の夜のまとわりつく空気だとか、人通りの少ない道を歩いてる時の無意味な無敵感だとか、部屋に戻るのを待ちきれずに帰り道で350mlの缶ビールを飲んだことだとか、そのままの足でIngressやポケモンGOをやったことだとかがふっと頭に浮かんできてなんだか切なくなった。


"バンドで音を鳴らす"という行為を久しぶりにできて心が高揚した。それと同時に「まだ自分の心は空っぽになってないな」と少し安心できた。延命治療のような見苦しい悪あがきのようにも思えるけど、やっぱり僕は音楽に触れていたいのだ。できればそれを鳴らす側でいたいのだ。改めてそう思った。

空っぽの気持ち

ダメ元で出してたエントリーシートが落ちた、と思う。就活サイトで見てるとどうも通ってる人には今週頭〜中ごろくらいに通知が届いてたようなので、今日の時点でなんの連絡もないということは落ちたんだと思う。経験・学歴不問とのことだったのでチャレンジしてみたものの、やっぱり大学出てないっていうのは痛手なんだろうなぁ。ダメ元でとは思ってたもののやっぱり凹むっちゃ凹む。自分の好きな音楽に関する職場へのチャンスだと思ってただけにちょいと未練。


実家に戻ってきて2ヶ月近くが経とうとしてるけれども、住んでいる場所が場所だけに働かずにいると社会と隔絶されている感覚がすごい。交通の便が悪い田舎で自分の車も持っていないので、どうしても世界の全てが自宅だけになってしまう。家族以外とのコミュニケーションもほぼないので、コミュニケーションを求めてTwitterに依存してしまう。実家に戻ってきてから確実にツイートが増えてるのを感じる。誰にも求められてない感覚が怖いんだと思う。結局寂しいという感情に負けてる自分が嫌だ。


新しい音楽や映画を上手く選べなくなってる自分にふと気づいた。いつの間にか少しずつ心が研磨されて触れるものがそこに引っかからずにすり抜けていってしまう感覚。AppleMusicやAmazonビデオを開けばたくさんの作品から選べるのだけれど、どうにも心の扉をノックしてくれない。こんな状態だから自分は音楽や映画が好きなのかどうか自信が持てなくなってきた。特に音楽は長いこと自分の生活やアイデンティティと結びついてただけに心がざわつく。曲を作る時間もたくさんあるはずなのに、言葉もメロディーも自分の中から出てこなくて焦燥感だけがつのる。そうこうしているうちに僕はいつの間にか空っぽになっていくのかもしれない。

愛の手の中に

珍しく車を運転した。5年前に免許は取得したものの「自分に運転は向いてないな」と教習中から薄々思っていたのでこれまで数えるほどしか運転していない。車社会の岡山に戻ってきたので運転は生きるために必要なスキル。そこで運転の練習も兼ねて母の外出についていった。


外出と言ってもショッピングや外食ではなく父方の祖母の見舞いだ。3年ほど前までは実家で一緒に暮らしていたのだけれど、足腰を悪くしたのもあり今は老人ホームに入っている祖母に先日の妹の結婚式の写真を見せに行った。実家から車で40分ほど。軽いドライブくらいの距離である。


どうも自分は見舞いというものが苦手だ。今まで経験した見舞いは癌で入院した父の見舞いとこの祖母の見舞いくらいでそんなに行ったことがあるわけではないのだけれども、ひどく気が進まなくなる。"身内が会いに来てくれるのは嬉しいことだ"というそこで待つ者の気持ちを想像したら"行くべきなのだ"ということは理解しているのだけれど、心が追いつかない。そしていくことを渋ってる自分に気づいて自己嫌悪に陥ってしまう。


ここ半年のちょっとした帰省のときはなんやかんや理由をつけて行かずじまいだったので祖母に会うのは今年初。なにかとトラブルメイカーで家族と衝突の多かった祖母のことだし、今日もこっちの話も聞かず喋り倒すんだろうな、と覚悟して部屋に行ってみるとどうも様子がおかしい。聞いてみると今朝から腕がしびれて気分が悪いと言う。一瞬、父が倒れる直前腕のしびれを訴えていたことがフラッシュバックする。


「腕の血行が悪いのかも」と母が片腕をマッサージし始めた。自分は持ってきた写真を祖母に見せながら沖縄は綺麗だったこと、親戚もみんな元気だったこと、妹が今までで一番綺麗だったことを説明する。いつもだったら相槌以上の返答でこちらに喋る間も与えないくらいなのに今日はほとんど喋らない。こちらもペースが狂ってしまって思ったよりも間が持たなくなってしまった。手持ち無沙汰になってしまったので、自分も母とは反対側の祖母の腕をマッサージすることにした。


祖母の身体に触れたのはいつぶりだろうか。父や母との衝突が多くなってきた中高生の頃から祖母を避けていたので、下手したら最後に触れたのは10年以上前かもしれない。もう思い出せないのでその頃と比較はできないけれども、手や腕を握った時の輪郭のない曖昧な体温は年月を感じさせた。そしてどことなく諦めの、もっと言えば死の手触りがした。自分はこの感覚と接したくなくて見舞いという行為を忌避していた気がする。


人の体に触れると、相手が誰であれなんとなく"許された"ような気分になる。どういうことなのかうまく言語化できないままアウトプットしてるのだけれども、祖母に触れながらふとそんなことが頭に浮かんだ。お互いの体温を感じあうその心地よさに罪悪やら過去やらなんやらを溶かして誤魔化しているだけなのかもしれない。自分の今までの不義理の許しを請うてるような感覚を覚えて軽い吐き気がした。


マッサージを終えて部屋を出るとき、祖母が軽く涙ぐんでるのを見て少しだけ心が痛んだ。死の匂いは過去の記憶や感情を、それが嫌悪であっても都合よくコーティングしてしまうのだなとぼんやり考えていた。


施設を出ると空が傾き始めていた。僕は金木犀の香りのする冷えた空気を胸いっぱいに吸い込んで消毒液と死の匂いを追い出した。