ジョークとジョーク

ことばのリハビリですよ。

犬は吠えるがキャラバンは進む

正月ムードも薄れて世間が日常を取り戻そうとしていた2017年1月7日の夜明け前、飼い犬が息を引き取った。前日から足元がふらついたり食欲がなかったりと良くない兆候はあったが、もうその日は朝からもう自力で立つこともできず食べ物もほとんど口にできない状態になってしまっていた。かかりつけの病院に連れていくかどうか家族で話したけれども、もう終わりが近いことが目に見えて明らかだったのでこのまま生まれ育った家で看取ってやろうということになり、母の布団で一緒に床についた。そして母が深夜目を覚まして様子を見たときにはもう息を引き取っていた。一番懐いていた母の隣で眠るように逝けてよかったな、と思った。


息を引き取ったばかりの体はまだ暖かくていまいち死の実感が湧かなかった。けれど亡骸を抱きしめたときの上手く定まらない四肢と首からは生の気配が消えていた。体にまだ残る暖かさと、触り慣れたやわらかい毛並みと、右手にあたる胸部の静けさとのギャップで混乱してしまう。なんとなく嘘のような気がしてしまって、のど元をなでたり鼻をくすぐったり耳をパタパタ動かしたりしてみたけれども、当然のように反応はない。ぼんやりとした悲しみをそのまま自分のベッドに持ち帰って何度もなぞるうちに、あぁこの子はもう死んでしまったんだ、ということがはっきりと形になった。そしてようやく涙をこぼした。


ドラマのように大げさな思い出はないけれども、一緒に生活してた中での些細な場面を思い出していると気持ちが高ぶってその日はうまく寝付けなかった。朝になったら2階に上がってきてベッドに上って顔を舐めまくってきたこと、来客の気配がしたらよく吠えていたこと、外出から戻ってきたら足元に飛びついてきたこと、散歩に連れて行ったらはしゃいで勝手に前に前に進もうとしてたこと、「餌だよ」と声をかけて食器にドライフードを入れる音がしたら駆け寄ってきたこと、イタズラ好きで隙あらばティッシュボックスから引っ張り出してティッシュを食べていたこと、リビングでくつろいでいたら足や顔をとめどなく舐めてきたこと、自分が退屈な時には人に近づいてきてなでるのをせがんできたこと、台所で晩飯の準備をしているとおこぼれがもらえることを期待して足元をうろついてきたこと。全部が過去になってしまった。


そして今日、亡骸を火葬した。もっと早く焼いてあげたかったのだけれども、斎場の都合でこの日になってしまった。職員に引き渡して屋外の喫煙スペースで一服をしていると、来る途中に見た工業地帯を思い出した。僕は小さい頃あの煙突の煙が空に昇って雲になるんだと信じていた。うちの犬も焼かれて煙となって雲になればいいと思う。幸いにも今日は快晴だし気持ち良く空に上れるはずだ。タバコの煙を吐き出しながらそんなことを考えていた。


僕がちゃんと飼い犬の死と向き合ったのは今回が初めてだ。もともと我が家には3匹の愛犬がいた。僕が小学6年生の頃に最初の1匹目がきた。明るいレッドのミニチュアダックスフント。1年後にこの子が7匹の子を産み、5匹は知り合いにもらわれていった。そして残ったブラックタンとレッドの2匹と母犬が我が家で生活することになった。母犬は一昨年、ブラックタンの子は去年亡くなっている。前の2匹の最期はどちらも僕が神戸にいるときだったので看取ることができなかった。そして今回最後の1匹が逝ってしまった。


死は少しずつ何かを失くしていくことなんだなと思う。最後の1匹は2~3年ほど前から階段を上がれなくなった。来客に対していつの間にか気づかなくなっていた。外出から戻ってきても大げさなお出迎えをしなくなった。散歩もいつの間にか歩くのを拒むようになった。「餌だよ」と声をかけても食器にドライフードを入れる音がしても目の前にご飯を持っていかないとわからなくなった。ティッシュボックスが目の前にあっても漁らなくなった。こたつの中で人の足を舐める癖がいつの間にかなくなっていた。何もないときは人に近づかずにひたすら睡眠と水を飲むだけになった。台所で調理の音が聞こえても興味を示さなくなった。そして最後には食べることも歩くこともできなくなった。死が訪れた途端に全てを失くすのではなく、少しずつ時間をかけて物や習慣や記憶を失くしていって最後に命を失くして死ぬのだ。穏やかに自然に失くしていけたこの子は幸せだったと信じたい。


犬たちはこたつに潜るのが大好きだった。冬場は日中の大半をこたつの中やこたつ布団の下で過ごしていた。もう1匹もいないのに、僕は未だに犬を蹴り飛ばさないように中を確認してから足を入れる癖が抜けない。こたつ布団の下に隠れてる犬を踏みつぶさないようについ遠回りをして歩いてしまう。他にも犬がトイレに行けるように引き戸を少し開けておく癖や、食べてしまわないよう机の上にティッシュボックスを置かない癖もそのままだ。まだ僕の行動の中から犬たちが消えていない。それを見つけるたびに少しおかしくなって少し寂しくなる。


けれどもいつかは犬たちのいない毎日が日常になって、僕の行動からも犬たちの気配は消えてしまうんだと思う。階段を上ってこないように段ボール箱で階段をふさぐ習慣も犬が階段を登れなくなってからはいつの間にかしなくなったし、餌の準備のときも反応を示さなくなってからは「餌だよ」と声をかけることもなくなった。そんな風に僕も少しずつ何かを失くしていって、ほんの少しずつではあるけども死へ向かっていくのだろう。


僕の習慣から犬たちがいなくなったとき、犬たちは完全に僕の記憶と写真の中だけの存在になる。僕はいい加減だから歳をとったら曖昧に思い出すばかりで都市伝説のように少しずつ像を歪ませてしまうかもしれない。だからせめてこたつに慎重に足を入れているうちは、足の裏を伝う舌の感触を思い出してくすぐったい気持ちになってあげようと思う。