ジョークとジョーク

ことばのリハビリですよ。

曖昧な引力

「自分たちが付き合うことで今までと何が変わってくると思う?」僕が改めて想いを告げた相手は逆にそう問い返してきた。それは今まで自分が過去から何度となく繰り返し考えてきた疑問であり、答えを見つけることのできていない疑問でもある。たしかに一体何が変わるのだろう。今だってたまに他愛のない連絡を取り合って、都合が合えば会って遊んで、じゃれあうことだってある。現在のその関係と恋人との違いは果たしてなんなのか。その間には何か隔たりがあるような気がするのだけれど、実態が未だにつかめない。結局その時も数秒で最適解を見つけ出すことができるはずもなく「何が変わるか分からないけど、仮に今そっちに彼氏ができたとしたら僕は悲しむと思うから付き合いたい」という的外れなことを口走ってしまった。現代文テストなら配点20点中0点。質問の意味を明確に捉えましょう。


「友達だとか親友だとか恋人だとか、人との関係性はラベルの貼れるものばかりじゃない。もっとアナログで名前のないものもあると思う」最終的に相手はゆっくりと時間をかけてYES/NOではない答えを出した。よくある「良いお友達でいましょう」という断り文句ともまた違う回答保留。保留とは言ってもこの先YESに変わる可能性はとても低いんだろうなとはなんとなく感じた。当初考えていたような関係には至らなかったけれども、これもまぁ自分たちの間の一つの答えの形なのかもしれない。ベストではなくベター。僕が言葉を探す代わりに吐き出した電子タバコの煙は、車窓の外からの涼風にさらわれてすぐに消えた。外は先日の台風が嘘のような高い青空。ようやく僕の夏が終わったような気がした。

DANCE TO YOU

この夏は去年出たサニーデイ・サービスのDANCE TO YOUというアルバムにハマっている。発売当初から名盤って評判を聞きまくってたから、今更ハマってるのもそれについてブログを書くのもちょっと恥ずかしくもあるのだけれども。毎日通しで再生するくらい夢中になったアルバムっていつぶりだろう。一昨年のceroのObscure Ride以来かなぁ。


最初に聴いた時は「身体を揺らせるメロウな曲だらけで良いなぁ」くらいの印象。それからは作業中にたまに流し聴きするくらいだったんだけど、一度歌詞を読みながら通しで聴いてみたらグッと心をつかまれてしまった。このアルバムの歌詞はシチュエーションこそ違えど"僕"と"君"だけのミニマルな世界。だけど曲中でちゃんと"君"に出会えている曲は多分半分もない。

きみのことが忘れられない
なにをしても手につかない
(I'm a boy)

あの娘ならなんて言うだろう
くすっと笑ってなんて言うだろう
(冒険)

見たこともないこんな街で 知らないだれかを探してる
苺畑で逢えるのかな
(苺畑でつかまえて)

きみがいないことは きみがいることだなぁ
(桜 super love)

さよならぼくのBABY バイバイ
(ベン・ワットを聴いてた)

そんでもって"君"が見つからない喪失感を動力にして"僕"は具体的な行動を起こすわけでもない。基本的にただただ目に映るものや景色を眺めながらぼんやり思考しているだけだ。なんなんだこの喪失感に満ちた曲たちは。すんごく空っぽ。こんなインナーな心情を綴った非行動的な曲が大半なのにアルバム名がDANCE TO YOU。すげぇ。素敵だ……。


でもアルバム最後のベン・ワットを聴いてたでは、「さよならぼくのBABY」と歌った後に「九月の海へ行こう」ときて「海で出会うものすべて 愛してるって言える いま」で盛り上がりのピークを迎える。投げやりではあるけどもちゃんと希望の光も見えてて、このアルバムの締めくくりとしては最高の一曲。なんなんだこの素晴らしいアルバムは。(余談だけどひたすら孤独を歌い続けて最後に「君を見つけたよ」と歌う古明地洋哉のアルバム、孤独の音楽に近いものを感じました。)


このセンチメンタルともちょっと違った絶妙な空っぽ感と、ここ最近の自分自身の死にたいほどつらいわけでもないけどどう生きたらいいのかもよくわからない静かな混乱具合が妙にシンクロしてしまってこの夏の一枚になってしまったわけです。夏自身が夏をあきらめてしまったような涼しい盆休み最終日に、新幹線でボケーっとこのアルバムをリピートしながら漠然とした寂しさを脳内で転がしていたらボロボロと涙が出てきてしまった。そんな僕自身のエピソードは置いといて良いアルバムです。


Sunny Day Service - I’m a boy【Official VIDEO】

Sunny Day Service - 苺畑でつかまえて【Official VIDEO】

Sunny Day Service - 桜 super love【Official VIDEO】

SUNSET IN MY ROOM


久しぶりに宅録やりました。前回作ったのが年末だから半年以上もやってなかったのか~。我ながら飽きっぽいというか腰が重いというか。"若手4人組インストバンドが夏フェスで黄昏時に演奏してそうな感じ"っていうテーマでサクッと作ってみました。もともと全然違う歌モノの曲を作ろうとしてたんだけど、ギターが上手く弾けなくて息抜きにアコシミュを通して適当に弾いてたら「おっ、このカッティング夕暮れっぽい」とピンときたので気分転換にこっちを作ってみることにしました。弾けてるかどうかは別としてベースラインやシンセソロは結構好き。


年明けくらいにパソコンを買い替えてOSがWindows10になったんだけど、高校のころからずっと使ってるMTRのBOSS BR-600がWindows10に対応してないせいで音声ファイルを取り込めないということが発覚してしまった。BR-600の記録メディア事態はコンパクトフラッシュなんだけどカードリーダーを持ってないから直接取り込むこともできないし……ということでPCMレコーダーのTASCAM DR-07 MKⅡにライン入力で録音してそれをPCに取り込むっていうめっちゃ遠回りな方法でなんとかアップロードまでこぎつけました。ただその過程でノイズが入ってしまったみたいでとても辛い……。"ライブ中に音響トラブルに見舞われたけど賢明に演奏してるバンド"をイメージしながら聴いてください。


にしても楽器は触ってないとすぐへたくそになりますね。ここ最近は友達とお遊びのコピーバンドをやるためにベースばっかり触ってたからキーボードが全然弾けなくなってて愕然としました。経験年数は一番長い楽器なのに録音も一番時間かかっちゃったし地味にショックだなぁ。もっと定期的に触るようにしよう。

甘い果実

思い出を呪いに変えてしまいやすい性格をなんとかしたいと思う。楽しい出来事、嬉しい出来事があるたびに現在や未来の憂鬱がより色濃く強調されてしまって精神的に参ってしまう。きちんと明日への活力へ変換させられればもっと生きやすくなるのに。


一度会ってからずっと心から離れない人がいる。その人と改札前で待ち合わせたときの落ち着かない気持ちだとか、一緒に歩いた夕暮れの坂道だとか、柔らかい声色で名前を呼ばれたときの嬉しさだとか、手を握った時の温度だとか、首元から漂う匂いだとかがどうにもずっと心にまとわりついている。最初は思い出すたびに嬉しいようなくすぐったいような気持ちになっていたのだけれども、互いの時間の都合でこまめに会うことが難しいので時間が経つたびに思い出に痛みを伴うようになってきた。


色恋沙汰に慣れていないから、誰かとほんの少しでも距離が近づいたあの一瞬への執着を恋心と勘違いしてるだけなのかもしれない。それでも自分にとってはもう一度会うには十分すぎる動機だったので、再び会う約束を取り付けた。会ってる最中はただひたすらに楽しく過ごして結局この気持ちがなんなのか区別はつかないままだったけど、別れ際の電車の中でどうにもこうにも泣きそうになってしまい、ようやくそこでこの気持ちが恋心だということに気がついた。そこから笑ってしまうほど強引すぎる理由で引き留めて気持ちを伝えることにした。この行為が果たして正解だったのかは今でもわからないけど、しみるような心の痛みは未だに消えていない。

空想X

何もない日曜日の午後は過去の自分に殺されそうになる。物語のクライマックスで今までの伏線がフラッシュバックするように、何かを暗示するかのように。人生における行動はゲームの選択肢のように正解不正解が明示されているわけではないのだけれども、過去の自分はそれが絶対100%間違いだと訴えていて同時に正解を選んだ時のパラレルワールドも提示してくるから非常にたちが悪い。ただの妄想でしかないのだけれども、もともと妄想癖が強い僕はどうしてもそれに強烈な質量を感じてしまいそのまま心に残ってしまうのだ。


僕の後悔の原因のほとんどはコミュニケーションだ。相手の反応に対して僕が余計な解釈をあれこれしてしまい、結果言葉や行動の過不足を引き起こしてしまう。文章や映像に触れるとき、そこにある空白を自分の解釈で埋めて完成像を作るのは正しい。でも対人関係においては自分一人では完成像を作れないはずなのにいつも勝手に像を作り上げて勝手に喜び、勝手に悲しんでしまう。その結果離れてしまった人たちのことを考えると自己嫌悪で気分が悪くなってくる。


誰かに話をしたりしてこのもやもやを解決したいなとは思うのだけれども、人に会えばいつも意味のない言葉ばかりを並べて一瞬を楽しむためだけに時間と言葉を無駄にしてしまう。未だに僕は僕のことをしゃべる手段を知らない。いっそ誰ともコミュニケーションをとらずにいればいいのかなとも思うけど、どこかに切実に人を求めてしまう自分もいてそれがとてつもなくめんどくさく、何も考えたくなくて適当に音楽を流して脳内を埋めている。


こんな気分で明日からの一週間を乗り切れるのかといつも不安で死にそうになるけど、多分なんやかんやで僕は生き延びてしまうんだろうし、そこそこ楽しい瞬間も訪れるんだろう。こんなことを繰り返して生きていくんだからなんだか気が遠くなるね。

腰ぬけマシーン

新生活が始まって2ヶ月ちょっとが経ったけど、なんとかそれなりに生き延びてる。生き延びてはいるけど毎朝「あー仕事辞めてぇ……」って思いながら自転車漕いでるし、毎日仕事で大なり小なりのミスを繰り返してしまって凹むし、職場での昼飯用に買いだめしてる安いカップラーメンもそろそろ飽きてきたし、この仕事を一生続けないとしてもじゃあ次はどうしようと考えたときに思考が行き詰まってしまう。雨の中を穴の空いた傘でしのぎながら知らない場所へ歩いてるような生活である。それでも職場からの帰り道で高台から見える夕陽が綺麗でなんとなく誤魔化されてしまうから自分ってチョロい。


そんなこんなで降りかかる雨をのらりくらりと避けながら26歳になった。18歳、20歳になった時のような歳をとることに対するワクワク感は今後訪れないにしても、親しい人にお祝いの言葉をもらえるのはいくつになっても嬉しいものである。気になってる人からもメッセージをもらえてちょっと舞い上がってしまった。本当に自分はチョロい。


いろんな人からお祝いのメッセージをもらってやりとりをしてる中で、計画未満な宙ぶらりんの約束がいくつもあることに気がついてしまった。よくある「飲みに行きましょう!」とか「予定合わせてご飯食べに行きましょう!」ってやつ。社交辞令で言ってるわけではないのだけれど、最近自分でもびっくりするくらい実行に移す行動力がなくなっていて非常に良くない。


なんでこんなに僕は人を誘うのに躊躇してしまうのか考えたのだけれど、Twitterでのキャラクターがやや肥大してしまっていることが原因かなぁと思う。正直な話、僕はいろんな人と関わりたくて人に興味を持ってもらうために過剰にユーモアを強調してしまってる節がある。しかし実際のところ僕は現実の会話のテンポは悪いし、瞬発力も乏しいから器用な返しもできないし、話題や教養もイマイチなので、会話をしてて楽しい方ではないよなぁというのが自己評価。なので興味を持ってくれてる人と会ってもガッカリさせてしまうんじゃないんじゃないかなぁ、貴重な時間を消費させてしまって申し訳ないかなぁ、とか無駄に不安になって声をかけられなくなってしまっているのだと思う。完全に悪い方向の自意識過剰である。文章にしてみたらなかなかにヤバいな。せっかくいろんな物事、人に出会える土地に来たのだからもっと図太い神経をもたなきゃもったいないよね。ということで26歳の目標は"行動"です。頑張ります。

すみか

新しい部屋は陽当たりの良い、暖かい部屋だった。南向きの大きな窓を開けると春の陽射しと風の匂いがノスタルジックな感傷を呼び起こす。季節が呼び起こす記憶はいつだって少し切ない。新生活への高揚感と不安と恋しさとせつなさと心強さとがずっとぐるんぐるん回っている。


勝手なイメージで関東は家賃が高いと思ってたのだけれど、神戸で借りてた部屋の7割程度の家賃で倍以上の広さの部屋が借りれてびっくりした。なんだったんだ前の部屋。騒音的な問題で安いらしいけれど、前の部屋も大きな国道と高速道路の目の前だったから耐性はあるし今のところ全く気にならない。今のところいつまでこの部屋に、この土地に住むかは分からないけど、きちんと自分のすみかにしていきたいな。


それにしても新生活は何かとお金がかかる。水を飲もうにもコップがない、洗面所にタオルをかけようにもタオルホルダーがない、ゴミを捨てようにもゴミ箱がない。大きな家具、家電以外でも日常で当たり前に使っていた道具は全て然るべきコストを払い購入していたものだったんだなと痛感した。しばらくは細々とした出費が重なるだろうから久々に家計簿アプリを使って支出を管理しなければ。まだまだ安住の地は遠い。