ジョークとジョーク

ことばのリハビリですよ。

若者のゆくえ

部屋を引き払ってからの放浪生活が終わった。放浪生活と言っても大したことない、東京と関西をブラブラとうろついただけの小旅行。行きたいところに行って、やりたいことをやって、食べたいものを食べて、会いたい人に会って。10日間充実してました。


部活の友人、コッチの友人などいろいろな人に会って、かなり自意識過剰だと思うけど"自分が思ってるよりも僕は人に愛されているのかもしれないな"と少しだけ思った。僕が関西を離れることについて多少なりとも感情を動かしてくれる人たちや、快く遊びの誘いに乗ってくれたり宿を貸してくれたりする人たちがいてとても嬉しかったです。


一昨日に実家へ戻った。よく通ってたラーメン屋で昼飯を食って、JR六甲道駅から電車に乗った。三ノ宮、姫路、相生で乗り換えて2時間ちょっとで岡山へ。ボーッと音楽を聴きながら窓の外を眺めると、馴染みある街並みをゆっくり見納める暇もないままにどんどん景色が流れていく。この街に来るときは新幹線で来たし、なにより大学入学と新生活に胸躍らせてたので土地を出る感傷に浸る暇なんてなかったんだけど、こうやって時間をかけて離れていくと色んな場面、言葉、匂い、音の断片が入れ替わり立ち替わり蘇る。それは未来の暗示のようでもあり、走馬灯のようでもあり。


この街で僕が得たものは何だったのだろうか。失ったものや取り戻せない時間の方が多い気がする。目先の刹那的な楽しみのために時間、金、学力、若さ、いろいろなものを犠牲にしてしまった。こんな気持ちで神戸を離れたくなかったな。


地元を離れるとき、何もない田舎から羽ばたけることが嬉しくてたまらなかった。電車なんて走ってない、バスは滅多にこない、最寄りのコンビニは車で20分もかかるような土地。こんなつまんないところ絶対に戻ってやるもんかと思っていた。でもあの頃の自分が最も軽蔑するであろう形で地元に戻ってきている。この矛盾がたまらなく悲しい。うとうと電車で乗り過ごしそうになって飛び降りた駅のホームで"岡山"という2文字を見たときのなんとも形容できない疲労感や脱力感、家の迎えが来るまで駅の喫茶店で一服したときに関西弁が聞こえなかった違和感や寂しさはこの先忘れない。


前日の晩見た夢で自分は「帰りたくない」と駄々をこねて泣いていた。誰かに慰めてもらっていたけれど、誰なのかは思い出せない。もしかしたら自分自身だったのかもしれない。