ジョークとジョーク

ことばのリハビリですよ。

愛の手の中に

珍しく車を運転した。5年前に免許は取得したものの「自分に運転は向いてないな」と教習中から薄々思っていたのでこれまで数えるほどしか運転していない。車社会の岡山に戻ってきたので運転は生きるために必要なスキル。そこで運転の練習も兼ねて母の外出についていった。


外出と言ってもショッピングや外食ではなく父方の祖母の見舞いだ。3年ほど前までは実家で一緒に暮らしていたのだけれど、足腰を悪くしたのもあり今は老人ホームに入っている祖母に先日の妹の結婚式の写真を見せに行った。実家から車で40分ほど。軽いドライブくらいの距離である。


どうも自分は見舞いというものが苦手だ。今まで経験した見舞いは癌で入院した父の見舞いとこの祖母の見舞いくらいでそんなに行ったことがあるわけではないのだけれども、ひどく気が進まなくなる。"身内が会いに来てくれるのは嬉しいことだ"というそこで待つ者の気持ちを想像したら"行くべきなのだ"ということは理解しているのだけれど、心が追いつかない。そしていくことを渋ってる自分に気づいて自己嫌悪に陥ってしまう。


ここ半年のちょっとした帰省のときはなんやかんや理由をつけて行かずじまいだったので祖母に会うのは今年初。なにかとトラブルメイカーで家族と衝突の多かった祖母のことだし、今日もこっちの話も聞かず喋り倒すんだろうな、と覚悟して部屋に行ってみるとどうも様子がおかしい。聞いてみると今朝から腕がしびれて気分が悪いと言う。一瞬、父が倒れる直前腕のしびれを訴えていたことがフラッシュバックする。


「腕の血行が悪いのかも」と母が片腕をマッサージし始めた。自分は持ってきた写真を祖母に見せながら沖縄は綺麗だったこと、親戚もみんな元気だったこと、妹が今までで一番綺麗だったことを説明する。いつもだったら相槌以上の返答でこちらに喋る間も与えないくらいなのに今日はほとんど喋らない。こちらもペースが狂ってしまって思ったよりも間が持たなくなってしまった。手持ち無沙汰になってしまったので、自分も母とは反対側の祖母の腕をマッサージすることにした。


祖母の身体に触れたのはいつぶりだろうか。父や母との衝突が多くなってきた中高生の頃から祖母を避けていたので、下手したら最後に触れたのは10年以上前かもしれない。もう思い出せないのでその頃と比較はできないけれども、手や腕を握った時の輪郭のない曖昧な体温は年月を感じさせた。そしてどことなく諦めの、もっと言えば死の手触りがした。自分はこの感覚と接したくなくて見舞いという行為を忌避していた気がする。


人の体に触れると、相手が誰であれなんとなく"許された"ような気分になる。どういうことなのかうまく言語化できないままアウトプットしてるのだけれども、祖母に触れながらふとそんなことが頭に浮かんだ。お互いの体温を感じあうその心地よさに罪悪やら過去やらなんやらを溶かして誤魔化しているだけなのかもしれない。自分の今までの不義理の許しを請うてるような感覚を覚えて軽い吐き気がした。


マッサージを終えて部屋を出るとき、祖母が軽く涙ぐんでるのを見て少しだけ心が痛んだ。死の匂いは過去の記憶や感情を、それが嫌悪であっても都合よくコーティングしてしまうのだなとぼんやり考えていた。


施設を出ると空が傾き始めていた。僕は金木犀の香りのする冷えた空気を胸いっぱいに吸い込んで消毒液と死の匂いを追い出した。