ジョークとジョーク

ことばのリハビリですよ。

父の話

父の一周忌が終わった。人が死んだ後の行事は無駄が多いな、と常々思う。いまだになんのためにやるのか、僕にはよくわかっていない。もっと成長すればわかるのだろうか。もっと成長したときっていつなのだろうか。


文章のネタのために身内を売るようで罪悪感があるのだけれども、今まで自分でも直視してこなかった事柄にきちんと目を向けるために父のことを一度文章にしてみようと思う。正直父に関することは目をそらしていたことが多かったから、正確に物事を覚えていないしはっきりと思い出せないことが多い。断片的なことばかりで読みにくい文章になる予感がしている。自分の嫌な部分もかなり目に付いてしまうだろうから気が滅入ると思う。このことを通して何を言いたいのかもよくわからない。けれども自分の中で存在しないもののように扱ってきた記憶にある種の整理をつけるため、文章にしてみようと思う。




父は外国航路の船長だった。1年のほとんどを船の上で過ごしてたまに2~3ヶ月ほど家に帰ってくるという生活だったので、昔から自分にとっては父が家にいない状態のほうが普通だった。物心がまだついていないときの僕を父が風呂にいれようとしたら、怖がって泣いて逃げたというエピソードがあるくらいである。成長してからもどこか父親、というよりは少し距離のある存在に感じていた。


父は"男らしさ"だとか"男なんだから"という言葉をよく口にしていた記憶がある。「父さんがいない間は男らしく母さんを守れよ」「男なんだからもっと身体を動かせ」だとかそういった文脈でよく使っていたはずだ。僕は小学生の早い段階から自分がゲイであるということを自覚していたので、どことなくこの言葉に嫌悪感を抱いていた。外で野球やサッカーをして走り回るといったいわゆる"男の子らしい"こととは無縁で、部屋にこもって読書やTVゲームに興じるような子供だった。なので父はよく「お前は女々しい」といった意味の言葉を口にしていた。もちろん侮蔑だとか叱咤だとかの文脈ではなく、どちらかというと子供が友達をからかうような軽いニュアンスだったはずだ。でもどうしてもそれを言われるたびに居心地の悪さを感じていたし、それをずっと引きずって父を好きになりきれなかったのかなとも思う。


唯一無条件で尊敬していた点は、父は幼いころからの船乗りの夢をかなえたということだ。小学校のころにはもう船乗りになるという夢を持っていたらしい。今でもその点では本当に尊敬している。


そんなわけで父との印象的な思い出がそこまで多くない。不思議なもので思い出そうとしても幼稚園のころ、夕暮れの散歩の時に肩車をしてもらった他愛ないワンシーンしか思い出せない。


僕が高校に上がって間もないころ、多分5月ごろだった。仕事先の上海で父が倒れて意識が無いという連絡が入った。兄と母がしばらく上海に行くことになった。パスポートを持っていなかったので、外務省か何かで特別な手続きをして入院先へかけつけた。僕は妹と祖母と家で待機することとなった。当時まだ僕は高校生、妹は中学生で家のことが頼りないということで、近所に住んでいる7つ上の従姉妹が泊まって家事をしてくれることになった。母と兄のいない生活が続いた。6月の僕の誕生日にも母と兄はいなかった。ちょっとわがままを言って従姉妹に宅配ピザをテイクアウトしてきてもらって晩飯に食ったのをよく覚えている。旅先からの連絡で父は脳溢血で倒れたのだということを教えてもらった。右半身が麻痺していて、言葉もしゃべれなくなっていると。いまいちよくわからなかった。ただ大変なことだな、という漠然とした感覚だけがあった。その後、祖母がどこか親戚に電話をかけていて「あの子(父)はもうダメだ」だとか「脳溢血だったらもう助からん」といったことを漏らしていた。それを聞いてしまった僕はキれて怒鳴って泣いてしまった。部屋に従姉妹が来て慰めてくれた。好きな音楽を聴いて必死に気を紛らせた。


夏ごろ、父たちが帰国してきた。家から車で30分ほど走らせたところにある病院に入院することとなった。そして去年の夏の休暇ぶりに父に会った。久しぶりに会う父はやせていて、目がうつろで知らない人みたいだった。みんなで「おかえり」とか口々に話しかけても言葉の変わりに吐息が漏れるだけだった。それを見て僕は猛烈に気分が悪くなってきた。消毒液のにおいがきつくて、とか適当な言い訳をしてトイレに逃げ込んだ。病室に戻って父を見たくなかった。僕の中でこのとき一度父は死んでいる。衝撃が大きすぎてそれからよく覚えていないけれど重苦しい空気に包まれてみんなで家に帰った。


それから父は病院でリハビリを続け家に戻って生活することになったのだが、いくつかの問題があった。こちらの言葉は通じるし文字も読めないのだが、父が読み書きができなくなっていたため意思の疎通が難しくなっていた。加えて感情のコントロールも難しくなっていたようで、ちょっとしたことですぐに怒鳴り散らしたりするようになっていた。少しでも意図が汲み取れなかったら母を言葉にならない言葉で怒鳴ったりものを投げたり。そして一番の問題は、母を認識できなくなっていたことだ。他の家族は分かる。僕が自分の息子であることは認識しているし、祖母が自分の母だということも分かるし、伯母のことも自分の姉だと分かっていた。けれども母だけをどうしても自分の妻だと認識できていなかった。兄の妻だと勘違いしていた。医者もなぜかはよくわからないといっていた。自分の妻の名前は覚えていて、目の前にいるのに分からない。目の前の女性が妻だという証拠を見せても納得しない。しまいにはキれて怒鳴ってしまう。悪い冗談みたいだ、と他人事のように僕は思っていた。そう思わないといろんなことがしんどすぎた。


祖母と父はもともと折り合いが悪かったのだが、これを機にさらに関係が悪くなっていった。実の親子であるにもかかわらず。うちは以前から土地の境界線の問題でどこかと長いこと揉めていた。父が元気だったころは"もうそんなことにこだわらずに終わらせよう"ということで、渋る祖母を押さえつけて丸く収まりかけてたらしいのだが、その問題を祖母がまたほじくりかえしてきた。当然父は激怒するが、言葉がしゃべれないのでなにも伝わらない。それを見て母が疲弊する。何も生まれない最悪の光景だった。僕の事なかれ主義はここが由来している気がする。


そのうち父に変な習慣ができてしまった。週に1度、自分で車を運転してあらゆる病院に行くのだ。さすがに父一人で運転させるわけには行かないので、助手席に母を乗せて。どうやら父の頭の中では"妻はどこかの病院に入院している"というストーリーができていたらしい。妻を探すために県内・県外問わずいたるところの病院へ行き、「(母の名前)という患者は入院していないか」と書いた紙を病院の人に渡して尋ねて回る。もちろんそんな人は入院していない。ずっと自分の隣にいるのだから当たり前だ。そして母が病院の人に経緯を説明して適当に話をあわせてもらう。この繰り返し。心底バカらしいと思った。


母を認識できなくなった父を見て、愛って何なんだろう、生きるってなんなんだろう、と猛烈に虚しくなった。僕はできるだけ父と接さないようにして過ごした。癇癪持ちの父と過ごすのは知らない人と過ごしているようで苦痛でしかなかった。いつしか父を憎むようになっていた。本気でいなくなればいいとさえ思っていた。何度も宙ぶらりんな殺意を抱いた。放課後も帰り道に古本屋で立ち読みしたりCDを探したりしてできる限り時間をつぶして家に帰り、家についても食事をしたらなるべくリビングで過ごさず自分の部屋でひたすら音楽に浸った。今思うと音楽にのめりこむきっかけはここだったのかもしれない。現実逃避としての道具として音楽を使っていた。大学進学も高校入学当初は地元の大学でいいかなと思っていたけれど、今すぐにでもここを離れたくて県外の大学を選んだ。


大学に進学した僕は陰鬱な高校時代を払拭するように享楽に耽った。極力長期休暇の間でも、何かと理由をつけて長期の帰省を避けて3~4日くらいで下宿先へ戻るようにしていた。ひたすら現実から逃げ続けていた。ずっとやりたかったバンド活動に没頭した。一種の父に対する復讐のような感情もあった。そのうち思ったように大学生活が上手くいかないこと焦り、家のことを全て家族に押し付けてることへの罪悪感が積もって、急かす感情に行動が追いつかなくなって緩やかに破綻していく生活が続いた。ぬるま湯のような蟻地獄の日々だった。


大学生活4年目くらいのころに帰省すると、父が胸のつかえを訴えだしていた。当初医者にかかったときは逆流性食道炎だということだった。「それだったら僕も似たような経験あるから食生活を正せば大丈夫じゃない?」と母に軽いノリで言っていた。後に癌だということがわかった。手術をすることになり僕も立ち会うことになった。家族で病院で長い時間やることもなく、ただ緊張感のある時間を共有した。手術は夜遅くに終わり、何かよく分からない器具につながれた父と面会した。母は「がんばったね。お疲れ様。」とねぎらいの言葉を眠っている父に投げかけていたけれども、僕は「そんなこと言っても意味は無いのに」と冷めた目で見ていた。医者に見せてもらった父から切り取った患部だけがやけにリアルだった。


それから1年後の冬、どうやら癌は他の部分にも転移していたようで父は入院することになった。父はみるみるうちにやせていった。倒れる前はランニングやダンベルで鍛えて立派な体格だったのに見る影もなくなっていた。ただ、父のいない家の中はどこか落ち着く空間となっていた。


そして去年の4月の中旬、朝に母から電話で父の意識がなくて危ないとの連絡があり、新幹線で病院へと向かった。僕が家を出てすぐに意識を取り戻して安定した状態になったらしかったのだが、念のため向かうことにした。案外父は平気そうで、普段通りの気難しそうな顔をした。二言三言適当に会話をして僕は関西へ戻った。その日は前々から予約していた不可思議/wonderboyのドキュメンタリー映画の大阪公演の日だったのだ。大阪へ向かうバスは宝塚トンネルの事故で渋滞していて、ついたのは開演時間ギリギリだった。映画は正直微妙な出来だな、と思った。なんとなく綺麗な言葉と綺麗な映像が流れてるだけで期待はずれだった。帰りの電車の中でTwitterを眺めていたら大学のゲイの友人と飲むことになった。ひとしきりうだうだしゃべった後、家で眠った。


翌朝電話がかかってきた。が、昨夜のアルコールの影響か眠くてどうしようもなくて無視した。電話はその後も2~3回かかってきた。ようやく目を覚ましたら母から留守電が入っていた。涙声で「父さんが死んだ」と録音されていた。電話に出なかったことを後悔した。同時に「ああ、終わったんだな」と心のどこかでホッとしていた。これで母は楽になるな、と。数日分の着替えとスーツを持って再び病院へ向かった。ちょうど父の亡骸が運ばれていくところだった。親戚がたくさん集まっていた。母は想像とは違って泣いていなかった。最初の電話で家を飛び出したとしても最期は看取れなかったということを教えてもらって幾分罪悪感は消えた。


家に戻って通夜と葬式の段取りを葬儀屋とした。あれこれ横から口出ししてくる親戚が鬱陶しかった。それから湯灌という作業を一緒にやった。足元から胸元へと水をかける、という作業だ。それから父に着せるための航海士時代の制服を用意した。制服を着た父は少し昔の頼れる父を思い出させた。同時に痩せてぶかぶかになってしまった制服が悲しかった。こんなことを書いたら父に怒られるかもしれないけれども、やせ細った顔は祖母に似ていてやはり親子なんだな、とも思った。


通夜には懐かしい地元の人がたくさん来た。知らない父の友人も来た。こんなに父は愛されていたのかと正直驚いてしまった。式の途中は泣いている母の手を握っていた。父が死んだことよりも母が泣いていることのほうが辛かった。通夜が終わって葬儀場の控え室に家族で泊まることになった。交代で誰かが遺体とついていなければいけないらしい。母と妹は家に着替えを取りに帰った。僕はいつの間にかうとうと眠ってしまった。目を覚ましたらまだ真夜中で、母だけが起きて父に話しかけているのが聞こえた。「お父さんは私を選んで本当によかった?」「今までありがとう」それが聞こえたとき僕は誰にも気づかれないように泣いた。母のために。母の経験した近くに愛する人がいるのに分かってもらえない苦しみを想像したら本当に辛くなったのだ。何度も罵倒され、傷つけられ続けていた母。それでもこんな言葉を出せる母を純粋に凄いと思った。


葬式の朝は葬儀場から出してもらったいなりずしと巻き寿司を食べた。正直朝から食うには多すぎる量だと思うからあそこの葬儀場はもっと見直すべきだと思う。式は思ったより平坦で、「あぁ僕は父のために泣けないのかな」とぼんやり考えていた。そして最後の父とのお別れの時間。参列者が一人ずつ棺おけに花を入れて名残を惜しむ時間がきた。場内では父の好きだった加山雄三の「君といつまでも」が流れた。

「幸せだなあ
 僕は君といる時が
 一番幸せなんだ
 僕は死ぬまで
 君を離さないぞ
 いいだろう?」

このフレーズが聞こえたとき僕は考えた。この世にいない架空の妻をずっと8年近く捜し続けて見つけられなかった父のことを。ずっと隣にいたのに気づけなかった父のことを。その孤独を。この歌とは違って父はともにいて一番幸せだと思える相手にとうとう会えなかった。そう考えたときに父が本当にかわいそうになって涙が止まらなくなってしまった。父が死んだことではなくて、父への同情で涙が止まらなかった。初めて父のために何かを思った。今までの父の癇癪もその不安と悲しさからくるものだったのかもしれない。ひたすら病院を巡っていたのも夫として、男としての責任を自分なりに果たしたかっただけなのかもしれない。少しだけ父を許そうと思った。


あれから1年経った今、実家に帰るたび仏壇に線香を供えて手を合わせる。頭の中では夕暮れと肩車の映像がいつも思い浮かぶ。父が向こうで無意味なドライブをもう続けていないことをただ願っている。